オーマイガーな書き物

【ネタバレ有り】パンとバスと2度目のハツコイの子供達が凄い件

はじめに

今回の記事は、【ネタバレ有り】パンとバスと2度目のハツコイの子供達が凄い件の紹介になっています。めちゃめちゃ大事な役割を果たしてくれています。
もちろん、今回もネタバレが含まれているのでまだの人はTSUTAYAで借りるかAmazonで買ってでみてね!

(引用元:深川麻衣と山下健二郎が“くまさんパン”作り「パンバス」メイキング写真 – 映画ナタリー

大丈夫ですか?鑑賞前の方はもういませんか?
大丈夫ですね!

じゃあ、改めて目次です。こんな感じで話していきます

深読み目次

・物語にある”終わり”という大きなテーマ(恋の終わり、絵の終わり、絵描きの終わり)
・その魅力の本質を知ってしまっても憧れつづけられるなら、に続く言葉
・作中で登場する子どもが今回のキーパーソン ←ここから
・本作に置ける洗濯機とは何を表しているのか?
・コインランドリーの少年は夢なのか
・alone again (naturally)の意味
・ふみの緑内障の設定は何を描写したかったのか
・ふみがデートで来ていた服は
・さとみという名前の設定と同性愛に関する主張
・助手席で寝ないでくれてありがとう発言
・あいこさん吉高由里子さんに似てる(これは深読みではない笑) 
・さとみと再会して幸せだと聞いた後にふみが涙した理由
・燃えた家の甘い香り事件と、2度のどうでもいいよ発言について

ちなみに前回の記事はこちら

https://www.ohmg.tokyo/entry/pan-bas/


【ネタバレ有り】パンとバスと2度目のハツコイの子供達が凄い件

作中で登場する子どもが今回のキーパーソン

さて、では第3章
作中で登場する子どもが今回のキーパーソンだなと思った話をしていこうと思います。

まあでも、本題に入る前に見てください
可愛すぎますよね。この2人。

https://www.instagram.com/p/BfXYZhzlThq/?utm_source=ig_web_button_share_sheet

 

この写真を撮ったカメラマンさん永遠に幸せになれる深川の呪いかかったと思います。

美しい世界だ。
では、始めます。

 

今作では、大人との対比として子どもがなかなかに意味ありげに登場する。
“たもつ”の子ども、”さとみ”の子ども、コインランドリーの子ども。
では、それぞれについて存在の意味を、描写の意味を考えていこう。

 

“たもつ”の子どもに関しては、第2章で述べたように、
形式的な事象では、人間は向き合うことができないと言うことを教えてくれると言う役割であったと思う。
それは、居酒屋のシーンで子どもを作ることで、愛を表現できればいいとの旨を”たもつ”が発し、
また、結果として”たもつ”と”アイコさん”が別れてしまっていることから想像できる。
“たもつ”の子どもは、愛の形式的な産物として誕生し、本質と形式の距離を教えてくれているように感じる。

 

では、次に”さとみ”の子どもである。”さとみ”の子どもについては、
述べる前に本編最後の”ふみ”と”たもつ”が朝日を見るシーンから今作における子どものあり方について推察しておきたい。

 

このシーンは、”ふみ”の日常を”たもつ”に紹介するシーンとして最後に登場し、
そして、前章のテーマともなった最後の言葉につながるシーンだ。

 

少し話がそれるが、今書いていてふと思い浮かんだので書いておく(後日別途まとめるかも)
“ふみ”が絵描きからパン屋になった理由は2つあり、1つがこの朝の光景を毎日見ることができるからだと言う。
“ふみ”はパン屋の朝の日常の魅力の本質に気がつきながら、なお憧れ続けられているのかもしれない。

そんな大切な成功体験、風景を自分が現在憧れている”たもつ”と見ることによって
“たもつ”との未来に希望を抱いているようにも見えてきた。やもしれぬ。そうでないかもしれぬ。わからぬ。はい。

 

話が戻るが、このシーンで”たもつ”が自分の息子にも見せてやろう。と言う旨のセリフを述べる。
それに対し、”ふみ”はちゃんとわかるかな?と反射的に質問するが、

 

少し考えたのち最終的には、

「子どもの方がちゃんとわかるか。」

といったセリフを述べる。

 

子どもの方が大人よりも本質に近い存在であると言うのだ。
これを前提に”さとみ”の子どもについて考えてみよう。

“さとみ”の子どもと”ふみ”が話すシーンでは
子どもの直感的な発言がしっかりと観客に刺さるように設計されているように感じる。

 

「うん。仲がいいよ。たまに喧嘩するけど」
「好きな人がいない人なんているの?」
「好きな子はいるけど、ママが悲しむからママにはママが好きって言ってる。でも、俺結構辛い。」

 

子どもは喧嘩することがイコール仲が悪いことじゃないことを直感的に知ってる。
論理で好きを殺したりしないし、大人はどうしてそんなことをしてしまうのか?と訪ねてくる。
好きな人のことを好きって言えないことが辛いことだと直感的に知ってる。

 

“さとみ”の子どもは、論理ではなく、直感としての本質をぶつけてくる。
存在そのものがある意味、考えすぎてしまい拗らせている大人への問題提起でもあるのだ。
またこのことから、子どもは直感的本質に近い存在であると言えると思う。
もちろん、上記の子どもの発言が万人に共通する直感的本質ではないことは理解しておきたいが。

そして、最後に登場するのが本作の子どもの中で最も印象深い彼だ。
彼は本作において孤独を守る象徴として登場している。
孤独を守るのが、子どもなのだ。

 

先ほども述べたが、子どもは大人よりも直感的本質に近い存在である
その直感的本質に近い存在が孤独を守っているのだ。
守るという行為は、大事なものであるから守られるのである。
つまり、直感的本質に近い存在にとって、孤独とは大事なものなのだ。

 

個人的には、孤独についての具体的な考察は次章の”本作に置ける洗濯機とは何を表しているのか?”にて述べたい内容であるので、ここまでにして、この章をまとめておこうと思う。

 

ある一人は、愛の形式的な産物として誕生し、本質と形式の距離を教えてくれる。
ある一人は、論理ではなく、直感としての本質を武器に考えすぎてしまい拗らせている大人への問題提起をしてくれる。
そして、ある一人は、直感的本質に近い存在にとって、孤独とは大事なものなのだと表現している。

 

彼らがいることで、作品にまた違った色が差し込まれているように感じる。

少しこねくり回しすぎた解釈をしてしまった自覚はあるが、
何か考えるきっかけになれば幸いです。

では、また次章にて!!

https://www.ohmg.tokyo/entry/panbas-kodoku/

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maru
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オーマイガー東京(編集長)/キグルミだ熱狂(gt, 作詞作曲)/新卒2年目エンジニアです。赤坂と浅草におります。最近作った→ https://lgtmeow3.tokyo

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