目次 #
タイムライン #
- 2021/01/30
- 『聴衆の誕生』(著:渡辺裕)1 章を読み終える
課題 #
- 音楽に関する人類史的な知見がない
- 芸術的とはいうものの、芸術的な音楽ってなんだろう?がわからない
要件 #
- Must
- 音楽に関する人類史的な知見が少しでも言語化できている
- More
- 芸術的な音楽ってなんだろう?が少しでも言語化できている
本題 #
サマリ #
- 近代クラシックの歴史とは
- 18 世紀から、19 世紀にかけて起こった娯楽的音楽から、芸術的音楽への変遷である
- 背景には以下のようなものがある
- 音楽文化の担い手が 18 世紀以前の貴族から、19 世紀の産業革命で誕生したブルジョアに移り、商業化したこと。不特定多数のものになったこと(= マス・カルチュア)
- 聴衆には娯楽派と芸術派がおり、当初はヴィルトゥオーソと総称される超絶技巧者たちが人気で娯楽派がマジョリティだったが、時代の移ろいで徐々にヴィルトゥオーソが廃れていき、芸術派が台頭してきた
- 19 世紀から台頭してきた芸術, 美学の見地からみるに音楽は地位が低かった。それを改善するために、娯楽的な音楽を切り捨て、音楽の精神的な部分にフォーカスをあて、近代的な聴衆の態度が形成された
- 芸術的な音楽とは
- まず芸術や美学の起りは、19 世紀以降の話である。それ以前は今日的な意味ではなく、"ワザ"としての意味合いが強かった
- 今日的な芸術、美学を独立させるために生み出した軸が『美』であった
- 『美』とは、対象から多様な感性体験を感じながら、一方で精神的に統一した体験を保つこと(自分の見解なんで、ちょっと雑かもしれない)
- 音楽は美学の観点において、感性ばかりのものと見做され、芸術的な地位を確立できなかった
- そこで、音楽から娯楽的な感性のみのものを切り捨て、精神性にフォーカスした音楽を高級なものとして扱った
- つまり、芸術的な音楽とは『音』を感性によって感じながらも、精神性で持って統一した体験を受け取るものである
- 音やリズムが個別に心地よく存在しているではなく、全体の作品に対して部分が従属している関係
- 近代的聴衆とは
- 近代的聴衆とは、芸術的な音楽を享受するために、余計なものを排除して挑む姿勢のことである
- 外部の刺激を受けないホールや、ホール内を暗くし周囲から刺激を減らす照明、また鑑賞中音を立てないモラルなどが具象的な例である
- ただこの近代的聴衆とは理念的なものであり、現実において純然たる近代的聴衆というのは存在していないという
近代クラシックの歴史について #
近代クラシックの歴史についてまとめる
- 18 世紀
- 音楽の立ち位置
- 音楽文化の担い手は貴族であり、音楽は一部貴族階級の内輪の集まりのパーティ用のものだった(≒ ターフェルムジーク)
- はじめから全員が全部の曲を真剣に聞くなど想定していない
- また演奏会の曲目の中に過去の作品が含まれることは稀であった
- モーツァルト
- 優しすぎもせず、難しすぎもせず、ちょうど上手い具合に中庸になることを目指したという記述がある
- 聴衆側の態度
- 18 世紀から 19 世紀の序盤まで聴衆が大人しく音楽を聞いている方が珍しいくらいだった
- 1784
- ライヒャルト主宰の演奏会
- お客が煩くて歌詞の大変が聞き取れないに違いないという前提で歌詞を印刷したプログラムが配布されていた
- エアフルトでの演奏会
- ビールやタバコが認められていたり、トランプをやっている人もいた
- ライヒャルト主宰の演奏会
- 1806
- 犬を連れてくることは禁止という規則が追加された
- 音楽の立ち位置
- 19 世紀前半
- 音楽の立ち位置
- 産業革命を期に資産を形成したブルジョアが音楽文化の担い手となり、聴衆層の母数が飛躍的に拡大
- 演奏会が商業的に成立するようになる
- また以前の貴族と演奏会の関係性とは違い、不特定多数と演奏会の関係性となった(=マス・カルチュア)
- 聴衆側の態度
- 演奏会が商業ベースになった結果、人々は人気があるものへとが流れていくことに
- 当時人気があったのは、ヴィルトゥオーソと総称される"超人的な妙技と華麗な演奏"を売り物にした音楽家たち
- ピアノ: リスト、ヴァイオリン: パガニーニ
- 大多数の聴衆にとって、音楽は娯楽以外の何者でない存在だった
- 一方で、かつてはごちゃ混ぜだった演奏会が、商業主義によって専門化されるようになり、『娯楽的』な演奏会のほかに、『真面目』な演奏会が開催され、また一部の学識的な聴衆たちも増えた。(現代のクラシックとポップスに近い形がここで形成された)
- 音楽の立ち位置
- 19 世紀中盤
- 音楽の立ち位置
- 商業主義に毒され利益を追い求めた結果詐欺行為なども増え、またヴィルトゥオーソにも聴衆が飽き始めてきたことも手伝って、娯楽派が凋落し始める(ここ根拠弱いし、本当かな?ってちょっと思うけど、現代でも超絶テクニックの音楽は『おおおすごい!!』ってなるけど、ずっとは聞いてられんなってのと一緒かも知れない)
- ヴィルトゥオーソ稼業から足を洗って、真面目な作曲家に転向するものも出てきた
- また、演奏会側もヴィルトゥオーソ人気に合わせた版権料の高騰により、存命中の作曲家の作品を取り上げにくくなり、徐々に過去の作品を演目とすることが増えてきた
- かつて娯楽派が『ヴィルトゥオーソ』というアイドル的な存在を打ち出したように、真面目派も『巨匠』という看板を掲げることで聴衆を獲得していった
- 聴衆側の態度
- 娯楽派が凋落し、真面目派が主流となる中で、近代的な聴衆の態度が完成していくこととなる
- 『芸術そのものの価値が認識されていないのだ。聴衆は演奏された内容ではなく、演奏そのものに判断を下している。かつては最高の質の時間をもたらした不滅の傑作が、今やあらゆる流行の中でも最もとるにたらぬ喝采などというものによって判断されるという悲惨な憂き目にあっているのである。』 by 1849 年の雑誌記事 Weber, ibid
- 近代的な聴衆の態度とは
-
感覚表層に現われるそれらの多彩な音響刺激を統一的に捉える精神の働きが要求された。それは言い換えれば、作品を一つの全体として理解し、各部分をその全体の中に位置づけるような構造的な利き方が求められているということである (『聴衆の誕生』 p76)
-
音を一つの機能として捉えることによって、その背後にあるものを聴くのである(『聴衆の誕生』 p77)
- このような精神性を大事にする芸術的な動きから、作品理解に必要のないものがどんどん排除されていくことになる
- 音を立てない演奏会のモラル
- 音を完全にシャットアウトするホール
- 客席を暗くし、周囲のことを意識しなくてよくなる照明(闇をひらく光 という本を読むといいらしい)
- 副作用的に、演奏中、一個人として作品に向き合うことができるようになったという
- 著者がいうに
-
『近代的聴衆』という概念はあくまでも理念的なものであって、実態は存在しなかったと言った方が適切なのかもしれない。(『聴衆の誕生』 p80)
-
-
- 娯楽派が凋落し、真面目派が主流となる中で、近代的な聴衆の態度が完成していくこととなる
- 音楽の立ち位置
芸術的な音楽と、娯楽的な音楽の違いについて #
- 音楽の分化
- 上述したように、ヴィルトゥオーソの賛否を軸に『クラシック/ポピュラー』, 『真面目/娯楽』などの価値観が誕生している
- つまり、このように音楽が分化したのは 19 世紀中盤以降になってからということである
- ちなみに、クラシックや真面目に対して、ポピュラーや娯楽と称するとき価値的な差別が含意されている
- 芸術というカテゴリー
- そもそも芸術という言葉は、"ワザ"(兵法、航海術、光学など)という意味で使用されており、今日的な意味を含み出したのは 18 世紀中頃から 19 世紀にかけてのことらしい
- つまり音楽に限らず、芸術という概念自体が大きく変動する時期に音楽も分化したのである
- 当時の美学の課題
-
独立した地位を認められてなかった芸術に対して、学者たちは『美』という独自の価値の存在を主張し、その『美』の体験を最も純粋に実現する場として芸術を位置付けようとした。その基本精神は芸術を『精神』と『感覚』という元来背反する二つの領域を調停的に綜合する中項(Mitte)として位置づけることにあった。芸術体験は感性的体験でありながら、煙草を擦ったり旨いものを食べたりするのとは異なる、ある種の精神的なものとの関わりをもち、また逆に精神的な体験でありながら、哲学書を読むというような観念的な体験とは異なって直接に完成に働きかける性質を持つ。(『聴衆の誕生』 p41)
-
統一がないほどに変化に富んでいる対象が、それでもなお統一を保持しているとき、対象は美しい(『聴衆の誕生』 p42)
-
『多様』は感性にあらわれる現象の多様性であり、『統一』は精神によって捉えられるない的な一貫性である(『聴衆の誕生』 p42)
- キーワード
- カントの美の定義に用いた『目的なき合目的性』
- ヘーゲルが美の規定に用いた『理念の感性的顕現』
-
-
-
- 美学の課題に対する音楽の立ち位置
- 上記の美学の課題からすれば音楽は感性的な側面が強く、思想や具体的な形象という精神的なものに結びつきが弱いとされており、芸術における地位が低かった
-
ただ耳に快適なだけの感覚の遊戯にすぎない(『聴衆の誕生』 p42)
-
- この美学の観点による音楽の地位の低さを払拭し、自己正当化を行うために、音楽美学の要求に合わない(=精神的ではない)種類の音楽を『低級』と切り捨てる方針をとった
- つまり、本来の在り方ではなく、音楽の『精神性』という側面を強化することでなんとか芸術としての音楽の地位を獲得したのだ
- キーワード
- ハンスリック: 病的享受, 美的享受
- キーワード
- 芸術的な観点に立って音楽を考えると
-
精神性の欠如、表面的な感性的効果への没頭、作品全体への顧慮の欠如、それが『娯楽音楽』の聴衆を『低俗』に貶めている要因である(『聴衆の誕生』 p46)
-
単なる感性の満足に終わることなく、作品全体を鑑賞し、それらを統一的に把握するという精神的な体験をすること(『聴衆の誕生』 p46)
- が重要なのだという
-
- 上記の美学の課題からすれば音楽は感性的な側面が強く、思想や具体的な形象という精神的なものに結びつきが弱いとされており、芸術における地位が低かった
- まとめ
- 音楽を高級/低俗、あるいは崇高/娯楽と二分するのは、19 世紀の以降の美学的な評価に乗るために、音楽を芸術化したことによるものだ。
- 元来の音楽のもつ感性的な側面の効果ではなく、精神的な側面を重視することで、近代芸術の地位を獲得した
感想 #
- 現代では当たり前になっているクラシックに対する態度も、元来あったものではなく、誰かによって作り出されたものだということが当たり前だけど、ハッとした
- 文化の移り変わりにはやはり文化の担い手の存在が影響しているのを音楽方面でも感じた
- 芸術すらも元来あるものではなく、ある時期から誕生した絶対化されていない概念ということが新しかった
- 芸術と聞くと『よくわからないけど、いいものなんだろうなあ』と、固定的は反応をしていたけど、一つの鑑賞の仕方にすぎないかもしれないと思った
- 娯楽的なものから、芸術的なものに移っていく過程をもう少し深掘りしてみたい気もする
- 作家性が見える音楽がとても好きなんだけど、精神性とちょっと近いのかもなあと思った
単純にマイナーなもの好きな自分が好きなだけな可能性は捨てきれないけど
- 近代的な美学の見地らしいので、現代で『美』の定義がどうなっているのかは今後また調べたい