「Twitter が好きです」昔からそうやって言うと、「承認欲求が高いのね」とちょっと哀れんだ目で見られてきた。私は、そのような人たちがちょっと嫌いだ。
確かに、SNS に対する執着は異常だとは思う。ちょっと肩が痛いな、なんて凝り具合を確認しながら時計を見ると、17 時だったはずがもう 20 時。3 時間も SNS を見ていたことに気づき、いつも愕然とする。
私が SNS に初めて触ったのは、大学生だった。それまでは携帯禁止、テレビ禁止、17 時半帰宅時の修道院のような寮生活をずっと送ってきたもんだから、大学に入った時には久しぶりに外界の空気を吸ったようなそんな気分だった。
寮に缶詰めにされていて、自分の同世代の子の流行なんてまったく持って知らない浦島太郎状態だったから、教えられるがまま一通りのメジャーな SNS をダウンロードした。周りの女の子たちのトレンドも、自分の好きなアーティストの動向も知ることができる。何これ面白いじゃない!そんな感じで SNS を毎日チェックしていたら、いつの間にか中毒のように夢中になっていた。
開いた途端、好きなアーティストも友達の惚気も同じような粒度でまわってくる。友達との会話は、決まって「あ、それインスタに上げてたよね。」で成り立ち、授業中は教授の話なんかよりも自分の投稿についたいいね!の方が気になってしまっていた。
身の回りの近い友達の投稿をチェックして、いいね!を付けあって、リアルで共有して。本当にそれくらいだったのだ。
なんだか体調が良くないなぁ、と感じたのは 2 年目の冬だった。何にもやる気が出ない、バイトには無断で遅刻し、やらなきゃいけない課題も手つかずのまま講評を迎え先生にぼろぼろになるまで怒られた。そのうち経験したことがないくらいの頭痛に襲われ、よく覚えていないけれど先生に病院を勧められた。そしてそのまま学校に行けなくなった。
6 年間の寮生活は窮屈ではあったが、外敵から保護してくれていた鉄壁の壁だったようで、そのユートピアの中で、もまれずに育った私はひどく競争に弱く、打たれ弱かった。布団の中でみんなにおいて行かれてしまう、どうしようどうしよう、と言う感覚だけが募っていった。
誰もいない家の中で唯一外部とのつながりは SNS だった。布団の中で目だけが開いた状態のぼうっとした頭を持ち上げて、慣れた手つきでツイッターを開き、スクロールする。時折、誰かわからないかわいい女の子の自撮りが TL に流れ、手が止まる。不自然に大きい黒目に惹きつけられる。いいね!2328 件、RT208 件。
「いいなあ」
不意にそんなことを思った。
こんな女の子になってみたい。いろんな人から羨ましがられて、憧れられるようなかわいい女の子に。
その時から彼女への憧れは止められなくなった。誰もいない知らないところで人の目を気にせずに自分を出してみたらどうなるんだろう、知り合いのいないところでもう 1 人の自分を作って。その子はこんなにぼろぼろなんかじゃなくて、儚くて可愛くてインターネットの中でずっと笑っていていろんな人にちやほやされて憧れられる…。そんな女の子になってみたい。1 週間後、私はツイッターでもう 1 つのアカウントを開設した。
近くの自称カメラマンに写真を撮ってもらい、ツイッターに投稿する日々が続いた。当初、フォロワーはまったくもって増えなかった。もともとバズる顔面の強さでもなかったから、やっぱりあの子にはなれないんだ、と幻滅した。
それでも写真を撮られ続けた。
画面の中の私はいつもの冴えないリアルな世界にいる時とはまるで違って、自分の世界を持っている不思議な、でも芯のある女の子を演じることができたから、だ。
続けているうちにいいね!の数も次第に増え、それに伴ってなんだか自分が認められたようで、自分がちょっと変われたようで嬉しかった。時間はかかったが、病気もだいぶ良くなって学校にも復帰できた。
ブランクが開いたことで数少なかった友達はさらに少なくなり、ほとんど知らない人のなかで受ける授業は居心地はあまり良くなかった。だから暇なときはツイッターをした。お互いに本名も知らないアカウント名しか知らない、けれど、温かい。そんな人たちが構ってくれた。画面をひらくことで自分を保つことができた。
「ツイッターが好きです」なんて言うと「承認欲求が高いのね」とちょっと哀れんだ目で見られてきた。残念ながら今でもそれは続いている。
…実際そうなのかも。ちょっと俯瞰してみれば、私は、残念ながらリアルでの承認を上手に得られずにネットの海に逃げた弱者なのかもしれない。
ただ、承認欲求とは「人に認められたい」と言う、強弱はあれど、誰しもが持つ自然な欲求である。その欲求の受け皿がインターネット上に自らが作り上げたネットワークであってもいいのではないだろうか。
名前も知らない、アカウント名の意味があるようなないような英数字の羅列しか知らない不思議な関係。
でもその緩やかで強固なつながりのおかげで生きられる人もいる。
むしろ、生まれた年が一緒の人たちと集められたクラス・たまたま受かった企業…などの偶然の巡り合わせで与えられたリアルに無理やり承認を委ねず、自分で自分の居場所を自ら作り上げている方が健康的なんじゃないかしら。なんてね。
だからさ、お願い。
承認欲求と言うだけで片付けないで。