好きなものや嫌いなものがはっきりしていないのに、「好きです。嫌いです。」なる⽂章を書くことになった。
⽂章を書くことはとても好きだ。
私のツイッターの依存度を知っている⼈からすればそれは容易に想像できることだろう。
⽂章を書くこと、おしゃべりすることは好きなのだが、いざ、じゃあ⾃分の⽂章が好きかと⾔えばあまり好きではない。やはり⽂章に触れてきた量が圧倒的に少ないからだと思う。読んだ⼩説の数なんて⼈⽣トータルで 50 冊もない。⾃分の⽂章はどこか物⾜りない。魅⼒がない。それはとても悔しいことだ。
いつか⼩説を書いてみたい。
⼩説でなくてもいい。エッセイなどを書いてみたい。本を出してみたい。そういう思いはずっと前からあって。だから物書きの仕事の依頼をされることはとても嬉しいし、基本断らないのだが、まあ書くのが遅い。つまらないものを世に出すのが嫌で、だから本当に遅くなる。何度も何度も、誰も気づかないような細部をチマチマチマチマいじくっている。そして元に戻ったりする。
⾃分の⽂章が嫌いなのに、書くことは好き。そういう⽭盾ってみんなの中にも少なからずあると思う。好きだから上⼿なわけではないのだ。でも上⼿じゃなくても好きでいていいと思う。それは⼤切なことだ。
こうして⽂章を書く、という⾏為ひとつとってみても「好き」と「嫌い」は同居、混在していて、そもそも「嫌い」ってことは対象に対して意識があるわけで、もうそれは「好き」ってことなんじゃないだろうか。違うけど。発想⾃体がストーカーのそれっぽくて怖いけど。
私は映画のタイトルをつけるのにも異常に時間がかかる。オリジナル脚本の時でさえ、⾃分のオリジナルであるのに、撮影時と公開時にタイトルが⼀緒だったことはとても少ない。タイトルを考えているだけで3⽇間はあっという間に経つ。そのくらいタイトルを、⾔葉のもつ⼒を、⼤切に思っている。
タイトルを決める打ち合わせの際に、毎回タイトルの候補としてあがり(いや、まあ私があげているだけなのだが)、「いい⾔葉だよね、でも今回は違うかな」と⾔われるひとつの⾔葉がある。
「結婚の7年前」
いいタイトルじゃないですか?「けっこんのななねんまえ」と読みます。いつかこのタイトルの映画を世に放ちたいと思っている。どんな映画のタイトルも「結婚の7年前」というタイトルに置き換えれば、途中に思える。途中に思える、ということはその後の⼈⽣が続くと思わせることができるし、どこかノスタルジックに感じさせることもできるということだ。
失恋で終わる映画があったとする。でもふたりは7年後に結ばれる。
12 歳の少年が主役の映画があったとする。19 歳で結婚するのかな、この⼦は。早熟ね。
余命映画だってそうだ。7年経って、死んだ恋⼈のことをやっと忘れられたのかもしれない。
いつかつくろうと思う。映画「結婚の7年前」。ホラーもいいかもね。
ちなみに⾃分は結婚の7年前には妻と出会っていなかったです。
■ 角田光代原作『愛がなんだ』が 4/19 よりテアトル新宿ほかで公開。
http://aigananda.com/