色盲・色覚異常のことを色覚多様性と呼称する趣旨の記事を見て、これはいい知性の使い方だなと思いました。異常という状態は相対的なものであるから、お互いがお互いに異常なのであって、異常に対して少しでもネガティブな意味を感じるとしたら、多様性という言葉に落ち着けるのはとても知的です。
この場では知的障害のことも、知的多様性と呼びたいと思います。
今日のテーマは『人類は知性を持て余している』んじゃないか問題です。
生きるために生きていた時代には、知性は各個人一人一人の命に結びついていました。知性がなければ容易に死んでしまう状況が普通だったのです。しかし、社会が成熟し、セーフティネットが出来、現在では何も考えなくてもある程度生きていけるようになったと思います。
『生きる』という目的を失った人間にとって知性は快適なツールというだけではなく、精神や社会を蝕む悪魔的な存在であるように思うことがあります。お金のため、暇つぶしのため、自分のために一方的に誰かの自由や尊厳を奪う、傷つける。はたまた自虐的に言いようのない焦燥感や虚無感に襲われる。
など、知性がなければ苦しみもなかったのではないかと思うことが多々あります。知性がなければ、死すら恐るるに足らないかもしれません。
人類は適応する生き物だと言います。もしかしたら、知的多様性はそんな『知性を持て余した』人類の新しい道筋なのかもしれないなと思いました。
現在では、世界中の賢人たちが人工知能、AI の開発を行っています。知性をアウトソーシングすることが可能な時代の延長線上に今の社会はあります。
自分の代わりに考えてくれて、生かしてくれる存在ができたときに、人類に果たして知性は必要でしょうか?
元々は生存するためにたまたま発生した『知性』。
いや、たまたま発生した『知性』が生き残ったという方が適切ですね。
生き残るためのツールだった『知性』が行き場を無くしているように思えます。
先述しましたが、生きるために生きる時代は終わり、現代は、よりよく生きる時代です。
この時代においてよりよく生きているのは『普通とされていた知性保持者』でしょうか?
それとも『異常とされていた知的多様者』でしょうか?
いやあるいは、もっと前。始まりからよりよく生きていたのは知的多様者だったかもしれません。
前時代においては、健常者などと自身の知性を過剰に高い位置に認め、知的障害者を蔑んでいた時代もあります。確かに知性がない = 死を招く時代においてはある程度その認識は正しいのかもしれません。
ただし、よりよく生きるという観点で考えれば『生き残る, 生存する』という生物根源の目的すらも選択肢の一つだと思われるのです。
よりよく生きるの定義が難しいし、それぞれで違うはずなので、属性で語るのはいささか乱暴ではありますが、知性を放棄する未来も私にはあるように思えます。知性ってそもそもそんなに尊い、価値のあるものではないと思うのです。たまたま発生して生き残った一つのツールでしかないのです。
ただ悲しいことに知性の獲得はある程度、不可逆的であり、一度あれこれ考え出したらもう仕方ありません。
今世は諦めて、知性を持った人間として最大幸福を目指していきたい所存です。
できるならば、死ぬ間際にドラッグでも一発やって、知性を飛ばす瞬間を味ってみたいと思います。
あるいは、アルコールが現代の合法知性放棄ツールだろうか。
最近簡単に酔えなくなってしまったことを、少し寂しく思いました。
上記の知性に関してもう一つ考えていることがあります。
この世界はまず『在って』、その存在に対して意味づけをするのが『知性』だと思っています。
すべてのものはまず在って、人間の場合、そこから意味づけをし、選ぶという行為に至ります。
これは子孫という存在に対してもそうだと思います。
かつては、精度の高い避妊具がなかったので、あるいは、生きるために必要だったので、快楽に任せて性行為をすると、選ぶ選ばざるにかかわらず、子どもが在ったのではないかと思います。
私は実際に感じたことはありませんが、子どもというのは不思議な魅力を持つといいます。
まず子どもが在って、その子どもの魅力にやられて親や周辺のコミュニティが育てるみたいな感じだったのではないかと妄想しています。
大事なのは、子どもがまず在るということです。人間は子どもを作るものではなく、在ったのです。
ところが現在の世界では、避妊具や性知識の精度が向上し、また、生きるために子どもが必要な状況でもなくなったので、子どもが在るという状況が発生しにくくなりました。
一時期、世間で話題になった言葉で『できちゃった婚』なんていう下世話な言葉がありました。どちらかというと計画性のないネガティブな言葉だったと認識していますが、この誕生の仕方こそが正直一番理解できます。
性知識がないのか、避妊に失敗したのかわからないですが、できちゃったんで、仕方ないというスタンスです。これは昔の子どもがまず在る状態に限りなく近いです。
逆に『できちゃった婚』以外で子どもが誕生する理由が私には全くわかりません。
こんな世界に、暇つぶしで子どもを"作る"理由で、共感できるものにまだ出会えていません。
“快楽”と”子どもが在ること”が切り離され、暇つぶしのための世界に、積極的に子どもを呼び寄せるという行為が私にはとても身勝手な行為に思えるのです。
こんなふうにごちゃごちゃ考えだすと、それこそ知性が暴走していて、生物としての本来の目的である『生きる』ことからずれてる感覚もあります。ここでも弊害が出てくる知性。私個人としては知性大好きなのですが、人類的にはこいつ本当にもういらんのじゃないかと思ったりします。
この世界が生きる論理で動いていることは理解しています。なぜなら、子孫を残さずに死んだ人たちの思考や文脈は断絶し、今ある世界はすべて子孫を残そうとして残してきた"生きる論理"で動いている人たちばかりだからです。
なので、上記の考えはあまり受け入れられないことだと思います。誰もみてないブログに言葉を残すことすら多少躊躇しますが、自身の考えも時間が経てば忘れてしまい、もったいないので形にしておきたいと思います。
こんな風に生きる論理の対抗軸として文を書いていると、そんな風に思うならさっさと死ねば?という乱暴な意見も出てくるかもしれないですが、死ぬことはやはり怖いです。
パニック障害になってから、死が怖いということの鮮明さがグッと上がりました。
正直、死が怖くなければ、この世界はとてもイージーなのになと思います。死が即ち救いになるからです。いや、正確には死はずっと救いなのですが、死の前に死への恐怖という大きな壁があって、結局救いになってないという表現が適切かもしれません。いつだって逃げられる状態は、とても生きやすいです。
生きる権利があるとするならば、死ぬ権利だってあるのです。
生物的には生きることは怖くないのに、死ぬことは怖い。逆に理性的に生きることは怖いのに、死ぬことは怖くない。人間としての矛盾を感じます。
正直。私だって出来ることなら死んでしまいたいのですが、めちゃめちゃ怖いので出来ません。出来ないので、死ぬまで楽しく暇つぶしてやろうという気概でいます。ネガティブが土台のポジティブです。
忘れちゃえばいいんです。
だからこそ、娯楽は素晴らしいし、物語には価値があり、快楽は尊い瞬間です。
我に返るスキマを捨てろと TOMOVSKY も言っていました。