今週は喉締まるやつの強いバージョンが発生してとても辛かったです。
どうしてこんなに辛いのに生きていなくちゃいけないんだろうかとなるたびにちょっと思います。兎にも角にも、この身体が不便だ。
理性的には死んでしまいたいのに、本能は死を怖がっているの矛盾〜
以上、愚痴でした。
最近割と近くに死を感じるので、遺書を書くとしたらなんてことをふと思いました。
こんな時に遺産の分配が一番最初に思い浮かぶのがなんとも言えない虚しさですが、ちょっと考えてみたので、メモとして残しておこうと思います。
誰にあげたいかなと思った時、まず初めに頭に思い浮かんだのが 1 人の友人でした。
何故か分からないんですが、無条件に好きだなと思える中学からの友人が 1 人います。擦り切れた表現ですが、猫ような魅力があります。こうやって考えてみると論理を超えて好きになるとかもあるんだなと我ながら発見がありました。貴重だ。貴方は特別な存在だったと伝えたいので遺産を送りたいです、死して、なお自意識が消えない無様さには目を瞑ることにします。
そして、その友人とほぼ同時くらいに思い浮かんだのが姉でした。同じ環境で生きてくれた存在に仲間意識みたいなものを感じているみたいです。これから頑張れよ。のエールとして遺産を送りたいです。
次に思い浮かんだのが自分のもの作りを一緒にやってくれた人たちでした。音楽、アプリケーション、事業と作ってきましたが、時間と熱量をくれた人たちには、時が経ってもずっと感謝が消えないのかもしれないです。恩返しの意を込めて遺産を送りたいです。
最後に思い浮かんだのが、嫌なことを忘れさせてくれたコンテンツ作りの人たちです。あなた達のお陰でなんとか遺産作れたよ。という逆存在証明というか、熱狂をありがとうという気持ちを込めて遺産を送りたいです。
最初の友人への遺産が未来へのお金で、それ以外が今までに対してのお金ですね。不思議だ。
今まではお金貯めて死んでもしょうがないと思ってたんですが、こうやって誰かにあげられると思うと、貯めて死ぬのもいいなって思うものですね。考え方一つでこんなにも変わってしまうとは、人間は状態の生き物だなと思います。話はちょっと変わりますが、一生の愛を誓うなんて正気の沙汰ではないと思ってます。私は私の一貫性に一切の自信がありません。
話を戻しまして、、、遺産って知り合いとか、一方的に知ってる状態でも渡せるものなのかな。姉は普通にいけそうだけど。今度調べてみようと思います。
話は変わって、芸術についての本を読んでいると感性と精神性という言葉がよく出てきます。
大事なキーワードのようです。
一方であらゆるもの(精神性も含む)は、自己批判性によって高められると最近思っています。つまり、夏目漱石が書いた『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』はここに繋がってきてるのか!と、勝手に納得しました。
とするならば、一見だらだらしてる様に見える生活の中にだって、向上心は存在できる。資本主義に侵されてるせいで、向上心というとついつい機能性をあげることかと思われがちだけど、夏目漱石が言ってる向上心は資本主義の構造の外にありそうな気がします。
あと別に、馬鹿でもいい。馬鹿でもいいけど、馬鹿になりきれない人は向上心が救いになるかもしれないと思いました。
最後に自己批判と自己卑下はわけたいところです。自己批判とはあらゆる角度から対象を批判的目線で捉え直し、誤りがある部分やバランスの悪い部分を調整することです。誤りやバランスは、対象そのものの絶対的なものな場合もあるし、環境や時代との立ち位置(相対的)な場合もあるので、自己批判性は常時あるべきです。逆に自己卑下は安易に自分を下げることで期待値を下げ、対象の質向上には一切繋がらないので避けたいところです。いや外に見せる分にはいいと思うのですが、自分の芯の部分ではおそらくやらない方がいいはずです。
最後に今週 BookSmart という映画を見ました。作中のシーンから人間の関係性についてちょっと思うことがありました。2 人組の友達同士が主人公の映画なのですが、映画中盤でお互いがお互いに『相手の欠点を補うためにカバーしてやってる』という気持ちをぶつけ合って喧嘩するシーンがあります。
お互いの認識は事実ベースでは正しいのですが、『やってあげてる』じゃなくて、『やらせてもらえる』同士の人間関係なのだよなあと思いました。『やりあっちゃう』同士だとダメだし、『やらない』同士の関係でもだめ。人間の形は歪で、人間関係は歪と歪の押し付けあいで、形があってる場合のみ心地よい関係が成立するんだろうなと思うなどしました。