今週は人とたくさん話す 1 週間でした。たくさんと言っても、一緒に今サービス作りしている会社の友人と、姉と、それぞれ一回ずつ、夜深くまで話しました。
(あともう一人学生時代に一緒に会社をやっていた友達から『久しぶりに話そ』とお誘いを受けたのですが、キャパ的に今週は断りました。こういうのってなぜか重なるものだな。)
自分が今考えていることとか、思っていることをぶつけて、それを面白がってくれたり、自分なりの意見くれたりする人がいることはとても有難いです。
友人の言葉でハッとしたのは、『人間ってバランスが大事だけど、そもそもバランス悪いよね』って話が出て、世界って入れ子構造になっていることがなぜか多くて、そもそも地球っていう存在自体が奇跡的なバランスによって誕生しているから、その性質が人間にも伝播しているのかもね。みたいな話になって面白いなと思いました。あとは、やりたいことも沢山あるし、やらされる仕事は面倒臭いし、早く労働者階級からアガって、時間的、金銭的余裕を確保しよう。と気持ちを高めたりしました。プログラマは仕組みを作る人種なんだから、自分のための仕組みを作らなくてどうするんだと、自分たちを鼓舞しています。
一方で、友だちとの夜はお酒を飲みすぎてしまって、その後 2,3 日くらい体調が悪く、せっかく作ってきた習慣をぶち壊してしまいました。習慣を破壊するのはいつだってアルコールだ。気をつけたいです。アルコールがなくたって十分に楽しいのに、ついついアルコールでブーストしようとしてしまうのはアル中の悪い癖です。ウイスキーをストレートで飲みだしたあたりから間違いだしたと思います。
ただ習慣未達成による不快感から、昔に比べて日常的に習慣達成から得ている快感が多いということに気づけたので今回ばかりは良しとします。
話は変わって、ようやく『聴衆の誕生』(著: 渡辺裕)を読み終わりました。
クラシックの誕生から、その変遷の歴史を、聴衆の観点から描いた本作なのですが、読み終えた感覚としては、世界の解像度が上がったような気になっています。
貴族パーティの BGM としての音楽から、産業革命を経て、マスカルチュア化し、高級/低俗の争い、そこに差し込まれる"芸術"世界の精神性の目線は、何も知識のない私にとってはとても新鮮でドラマチックでした。
また 19 世紀の近代クラシックが純粋鑑賞の観点から閉じていき、複製芸術によって開かれていく様子からは、逆らえない時代のうねりが見て取れたり、その開かれていく過程で、精神性を重視するあまりに重くなっていった『意味性』を人為的に剥がす現代音楽(ミニマルミュージック等)の起っていくと言う動きは、少し前に勉強した現代アートの流れと重ねてみることができたり、とても面白かったです。
この本は初版が 1989, 増補版が 1996, 文庫版が 2012 となっているのですが、増補と後書きがまた衝撃的でした。
全く事前知識がない状態だったので、記述してある内容について『ああ。なるほど。そういうことだったのか』と随時無批判的に吸収して読んでいっていたのですが、加筆された内容は自己批判的でした。文化や歴史に向ける眼差しというのは、その時代、その時代で変わっていく。ある時代から、新しい時代へ変わった時に過去の眼差しが間違っているように見えるが、新しい時代の眼差しすらも完全に正しいわけではない。むしろ、その当時においては、その当時正しいとされている眼差しが実態であり、例えば増補した時点でみると 89 年の眼差しは完全であったかというと完全とは言えないが、一方で完全でなかったというとそうとも言えない。(という解釈をした)というような内容になっていました。
まだ読みたての状態なので、上記内容が正確でない可能性は十分あるのですが、上記に近い内容を知れたことで心に起こった衝撃は間違いなく、音楽史だけではなく、歴史や文化についての眼差しについても筆者の真摯な思考を読むことができて、これが読書の醍醐味じゃないかと嬉しくなりました。僕が本書の序盤に感じたドラマチックさも、バブルの熱狂とポストモダンという時代性の上に立っていて、相対的なもので、だからと言って、否定されるべきものでもない。強いて言えば、常に俯瞰的、メタ的な視点で落ち着いて捉え直す、自己批判性を持った上で考えていくことが大事なんだ。と思いました。
友人との会話の中で、こういうことを十分に時間をとって考えることができるようになったのは、
ウイルスによって時間的な余裕が発生し、仙人のような山籠り的な生活が現代に発生しているからだよね。と話しが出ました。
今なら少し仙人の気持ちがわかるような気がします。
ただまだ『人はなんで芸術を作る/欲するのか』が全然言語化できていない。
今後、見つけていきたいし、ライトニング・フィールドは死ぬまでにみたい